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沖縄の大好きな中年オヤジですが、ブログで色々取り上げています。(笑)

初詣「二礼二拍手一礼」は作法として正しくないと言う話

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神社にお参りに行くときもそうですし、仕事では工事の安全祈願とか、かなりの回数

神社にはお参りしました。そう、拝むときは、いつも二礼二拍手一礼です。自分も、こ

の方法は古来からのしきたりと思っていましたし、神主さんにそれを聞いても、その方

法を教えられましたので、てっきりそうだとばかり思っていました。ところが、この方

法は古くからの作法でもないし、祈願の際の方法としては適切ではないとのお話まで、

出てきてしまいました。ニュースは東洋経済オンラインからです。

 

東洋経済ON LINE 1月1日】

初詣「二礼二拍手一礼」が古い伝統という勘違い

 

新年最初の行事といえば、初詣であろう。

実際のところ、日常的に神社に通っている人は限られているはずだ。そう考えても多くの人にとって、お正月は「二礼二拍手一礼」をする数少ないタイミングだといえるかもしれない。

ところが、『神社で拍手を打つな! -日本の「しきたり」のウソ・ホント』(島田裕巳 著、中公新書ラクレ)によれば、「二礼二拍手一礼」は伝統的な作法ではないのだという。

少し年齢が上の世代になれば、自分が若い頃は、そんな参拝の仕方はしていなかったと、昔を思い出している人たちもいるのではないだろうか。実際、二礼二拍手一礼という参拝の作法が広まったのは、それほど昔からのことではない。いつから広まったのかについては、はっきりしたことは分からないが、浸透したのは平成の時代になってからで、昭和の時代には、まだそれほど広まっていなかったのではないだろうか。(25ページより)

あまり深いことを考えず、流されるまま二礼二拍手一礼をしていたものの、確かにそのとおりだ。読みながら思い出したのだが、たとえば小学校低学年のころは、「ぱん、ぱん」と声に出しながら二拍手をしていただけだったような気もする。

では、なぜいま「二礼二拍手一礼」が当たり前のように浸透しているのだろうか?

作法には厳格なきまりはない

現在では多くの神社で、二礼二拍手一礼を奨励する掲示を見ることができる。巫女さん姿の女の子が二礼二拍手一礼をするイラストを、いろいろなところで目にするのではないだろうか。

だから参拝者も疑うことなくそれに従っており、とくに若い人たちにとってそれは自然な行為であるのか、率先して二礼二拍手一礼を行っているようにも見える。彼らが神社に参拝するようになった時点では、すでにそうした掲示がなされていたことの証明だともいえるかもしれない。

ところが実際のところ、社前での参拝の際に、二礼二拍手一礼を行うという作法がいつから奨励されるようになったのかはわからないというのだ。

 

そもそも先に触れたとおり、年齢が上の人間にとって、それはどこか違和感のある行為でもある。しっくりこないからこそ、このしきたりに従わないという人がいてもおかしくはないだろう。

なぜ違和感を持つのだろうか。それは、二礼二拍手一礼が、もともと神職の作法であり、しかも、それを行う前に玉串を捧げる行為が実践されるべきものだからである。本来、二礼二拍手一礼は、単独で行うものではない。玉串奉奠(ほうてん)に伴う作法なのである。(43ページより)

一般の人間でも、神社で「正式参拝」を行うときには玉串を捧げる。榊(さかき)を神前に供えるわけで、二礼二拍手一礼は、そのあとに行われるのだそうだ。

つまり、玉串を捧げることと二礼二拍手一礼はセットになっているということだ。実際、これをやってみると、作法に流れがあり、違和感を持つことはなくなるという。

ただし、社殿の前で参拝をするときには、いきなり二礼二拍手一礼をするという形になる。その前に「賽銭箱に賽銭を投げ入れる」という行為があるため、それが玉串を捧げることの代わりと考えることも不可能ではないだろうが、しかし玉串と賽銭とでは意味が異なる。

具体的にいえば、玉串を捧げるときには、供える前に祈念する。その行為があることで、神に相対しているという感覚が生まれるわけだ。しかし、賽銭を投げ入れるという行為にはそこが欠けているというのだ。

社殿の前で、ただ二礼二拍手一礼をするというときには、祈念するという部分がない。そのため、参拝者のなかには、二拍手をした後にそのまま合掌し、祈念する人たちがいる。そうしないと祈念しないまま参拝が終わってしまうからだ。祈念する箇所を含まない二礼二拍手一礼は、神社に参拝する作法として果たして好ましいものなのだろうか。私は、そこに強い疑問を感じる。(44ページより)

その作法に「祈念する」という行為が欠けていることを、二礼二拍手一礼の作法を推奨している神社や神社本庁の側は、十分に検討してきたのか? 著者はそのことについて疑問を投げかけている。ただ、正しい作法というものを指導することによって、自分たちの権威を示そうとしてきただけなのではないかと。

東京都神社本庁も作法の存在を否定

東京都神社本庁のウェブサイト内の「参拝の作法」というページには、「私たちが神社にお参りする際の作法には厳格なきまりはありません。敬意の表し方は人それぞれですし、参拝の作法も神社や地域によって特色があります」という記述がある。

そのことについても著者は、「実は、神社庁の方針に対して密かに抵抗しているからではないだろうか」と推測している。

昔から神社に関わってきた人間であるなら、たとえ神職でも、祈念が欠けている作法に釈然としないものを感じるはずだというのだ。また、そもそも神社に参拝するということは、それほど堅苦しいことではなく、もっと自由でいいのではないかとも主張している。

私もそれには共感できる。なぜなら本来の目的は「思いを込める」ことなのだから。必要以上に二礼二拍手一例にこだわらず、社前で合掌するというほうがずっと好ましいということだ。

二礼二拍手一礼が「スタイル」になってしまっている以上、心を込めて神と相対するのは難しい。だからこそ、神社で拍手を打ってはならない。著者の根底にあるのも、そんな考え方である。

昔は正月に年神様を迎えた

冒頭に書いたように、一般の人たちが二礼二拍手一礼を実践するのは、主に正月の初詣のときであろう。もちろん日常的に参拝している人もいるだろうが、大多数の人たちは初詣にしか参拝しないのではないか。したがって、二礼二拍手一礼の作法に従うのもそのときだけということになる。

しかしこれは意外に新しいしきたりなのだそうだ。少なくとも江戸時代には、初詣に行く人などいなかったという。

江戸時代と現代で共通している正月のしきたりは、門松などの松飾りをすること、大晦日に年越しそばを食べること、鏡餅を飾ること、おせち料理や雑煮を食べることなどだというのだから驚きだ。

「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」というのは、室町時代の禅僧、一休宗純作とされる狂歌だから、門松はかなり古いしきたりということになる。
これは、今でも地方ではある程度生きているが、重要なのは江戸時代の正月には、五穀豊穣をもたらす「年神様」がやってくるという信仰が存在したことである。松飾りをするんも、その年神様が宿る依代(よりしろ)となるからである。鏡餅も年神様に供えたもので、おせち料理も同様である。年神様のお下がりをいただくことが雑煮のはじまりだという説もある。(49ページより)

だが、いまでは年神様を家に迎えると考える人はほとんどいないといってもいいだろう。たとえば門松も本来の意味を失い、ただの正月のシンボルにすぎない。

おせち料理にしても同じで、供え物であると考える人はいなくなった。あくまでそれは、正月に食べる特別な料理にすぎないわけだ。それどころか現代では、「どうせ余るだけだから」とおせち料理を用意しない家庭も増えているのではないだろうか。

つまり、たとえ江戸時代と同じことをしていたとしても、その意味は根本的に変わってしまったということだ。

かように、しきたりというものには意外なほど新しいものが多いわけだが、その際たるものが除夜の鐘だという。

古いしきたりだと信じている人が大半ですが・・・(写真:BLAST/PIXTA

晦日の夜に各寺で撞かれる除夜の鐘の回数は、ほとんどの寺で108回と決まっている。ご存じのとおり、仏教において108は人間の煩悩の数とされているからだ。

煩悩とは心の汚れを意味し、108の由来については諸説あるものの、煩悩の数だけ鐘を撞くことで、煩悩を払うことになると受け取られているわけである。だとすれば、除夜の鐘が古くからそれぞれの寺で撞かれていたかのように思えても無理はない。

ところが、除夜の鐘が俳句の季語として定着するのは昭和の時代に入ってからである。1933年に刊行された山本三生編『俳諧歳時記』と翌年の高浜虚子編『新歳時記』からだとされる。(53ページより)

とはいっても、それまで除夜の鐘が句に詠まれなかったわけではないようだ。例えば宝暦年間(1751~64年)の古川柳には、「百八のかね算用や寝られぬ夜」があるという。

また江戸時代後期に陸奥白石(宮城県)の千手院の住職だった岩間乙二に、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」の句があるそうだ。このように、江戸時代に除夜の鐘は一部で俳句に詠まれてはいたが、とはいえ季語として定着するのは昭和の時代、1930年代になってからだというのである。

知られざる「しきたり」の面白さ

これら一部のトピックスを確認するだけでも、われわれが古いしきたりだと信じて疑わなかったものが、実はそうでもなかったということがわかるのではないだろうか。

本書の面白さはそこにある。「初詣は鉄道会社の営業戦略だ 」「クリスマスは狂乱まじりの無礼講だった」「ニッポンの無礼講の伝統」などなど、見出しを眺めているだけでも興味をそそられ、読んでみればぐいぐいと引き込まれる。

しかも重要なポイントは、高名な宗教学者である著者、さまざまなトピックスを盛り込むことで間口を広げている点だ。そうすることによって、「しきたり」のおもしろさやツッコミどころなどに関心を向けさせているのである。

 

だから信仰心の有無にかかわらず、肩の力を抜いて楽しむことができるだろう。年末休みに読んでみれば、芸能人が大騒ぎしているだけのテレビ特番を見るよりは充実した時間が過ごせそうだ。

 

こんな記事を見ると、本当にああいう決まりっていうのは、勝手にと言うか、勘違いも

あって、どんどん決まることも初めて知りました。新年の1発目としては、非常に参考

にもなり、少し考えさせられました。