気になるトピック&ニュース少し掘り下げブログ

沖縄の大好きな中年オヤジですが、ブログで色々取り上げています。(笑)

ヘンリ・トイヴォネンとランチアデルタS4

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マン島のバイクレースやWRCラリーの様子をyoutubeではよく見たりしています。そん

な中でも最近、どうも多く見てしまっているのが1980年代中盤のWRCレース、それも

グループBのものです。この時期はラリーカーは本当に怪物マシーンだらけで、例の

アウディ・クワトロとかが走っていた時代です。そんな中でも最近はどうしても多く

見てしまうのがランチアデルタS4.狂気の怪物マシーンと言われた車です。

 

停まっている時は、どうということもない車ですが走っているとめちゃめちゃカッコい

い。軽い感じで言いたくないですが、ジェット戦闘機のファントムとかと機能美と言う

点で近いような気がしています。当時はそれほど気にはしていなかったのですが、

このマシーンはパイプフレームにサスペンション、もちろんエンジンもですが、それを

ケブラー樹脂とプラスチックで覆った構造だそうです。車重量は800㎏代なのに、エン

ジン馬力は500HP以上、ビスカスカップリングの4輪駆動でターボチャージャーとスー

パージャージャーが付いていたそうです。本当に初期の4駆のバケモノです。

 

今の車のように電子制御なんか着いてません。コースタイムは今のラリーカーの方が

良いそうですが、これはコーナリングの良さでそうなっているそうです。ですから

当時のラリーカーは直線のスピードと加速でタイムを稼いでいたそうです。その中で

もデルタS4は化け物中のバケモノで操作がしっかり出来たのはトイヴォネンだけと

言われています。

 

彼はフィンランド生まれで父親も弟もラリ―ドライバー一家。どんな時もフルパワーで

走るラリードライバーで早くて天才とも呼ばれていました。優勝は3回だけでしたが、

頭角を現した段階で事故で亡くなります。1986年の5月2日、コルシカ島でのラリー2日

目。亡くなる前日には「このラリーはすべてがうまくいっているのに、なにかおかし

い。問題が起きたら、きっと死ぬだろう」と、自らの運命を暗示するかのような言葉を

彼は残していたそうです。そう、これってセナにも似てる。 ちなみに彼はラリーに

行くか、F1に行くかで迷ったそうです。フォーミュラーカーのドライビングも凄くて

セナに劣らない才能だったそうです。やはり天才だったんですね。彼も。

 

そんな訳でコルシカ島の事故現場のカーブも事故後の車体、いや、パイプフレームも

動画と写真で見てみましたが、左のカーブは、そんなにキツクもない。だけどブレーキ

痕はなかったそうです。そのまま崖に突っ込んだようです。その事故現場には観客も

いなかったし、誰も見ていないのでどんな事故だったかも分かっていません。でも

一回その事故現場を通り過ぎたラリーカーが事故車の火災のせいか、気付いて戻った

時には車はほぼ全焼の感じで横のドアには立木が突き刺さっていたそうです。想像

するだけでも悲惨なんてもんじゃないです。もうどうしようもないですが即死で

あってほしい感じです。焼かれて死ぬなんて耐えられない。当時は運転席の下に

アルミ製の燃料タンクが据え付けてあって、その危険性は前から言われていたそう

です。コ・ドライバーも一緒に死亡。

 

そして、この事故の数日後にWRCのグループBは廃止となります。当初から、その

危険性は言われていたそうですが、それで醸し出される何とも言えない緊張感で

人気があったと思いますが廃止になったわけです。当時はBの上のグループSも

準備されていたそうで、人間のあくなき探求心と言いますか、過激さを求める気持ち

も、限界を超えていた感があります。事故前のトイヴォネンの談話を聞いても

このコースでこの車は早すぎるとか、余りの速さに運転していると常軌を失うよう

な言葉も彼は言っています。そう考えるともう人間が操作できる限界を越していた

車なんだと思います。

 

彼も享年29歳、奥様もお子様もいらっしゃったそうです。なんか知れば知るほど切ない

感じもしますが、なんでしょう、感動もあるんです。それに彼の表情、好きですねぇ、

頑固でフルスピードで走る姿が想像出来ます。本当の天才はやはり短命なんですね。

彼の亡くなった左カーブの内側には慰霊碑が建てられています。コスシカ島だと

行けないかな。

 


Henri Toivonen - A Morte