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伝説のF1ドライバー、ニキ・ラウダ氏死去、享年70歳

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(c) Getty Imagesラウダ(1975年、モナコGP

アイルトン・セナがレースの事故で亡くなった時も結構ショックでしたが、今回は遂に

F1の伝説男、ニキ・ラウダ氏が亡くなった報道です。享年70歳。自分と8歳しか違いま

せん。若いですねぇ、でも彼が今までどんな事故でどんなケガをしてきたかを知れば

逆によくぞ生きていてくれました、と言う気持ちにもなります。それだけの大怪我や

火傷を受けた男ですから。走るコンピューターとかも言われてました。それだけドライ

ビングが正確で冷静だったのでしょう。あのアラン・プロストが先生と仰いだ方です。

MSNニュースから掲載します。

 

【MSNニュース 5月21日】

 

5月20日(月)に70歳で亡くなった、ニキ・ラウダの経歴
 ニキ・ラウダが、5月20日(月)に亡くなったことが分かった。享年70歳だった。
 ラウダは1971年のオーストリアGPでマーチからF1デビュー。この年は1戦限りの参戦だったが、翌1972年からフル参戦。しかし、初入賞はBRMに移籍した1973年のベルギーGPまで待たねばならなかった。


 1974年にフェラーリに加入すると、その初戦アルゼンチンGPで2位に入り、F1での初表彰台を記録。第4戦スペインGPでは、初優勝を遂げた。なおこの初優勝はポールポジションとファステストラップも記録する”ハットトリック”であった。
 同年は2勝を挙げるも、シーズン後半に5戦連続リタイアがありランキング4位に終わったが、1975年にはフェラーリ312Tを駆って5勝。初のチャンピオンに輝いた。


 1976年には開幕2連勝を果たすなど、第7戦スウェーデンGPまで全戦表彰台を獲得する。しかしドイツGPでは大クラッシュを喫して炎に包まれ、全身大火傷。瀕死の重傷を負い入院を余儀なくされる。ただ、不屈の闘志で僅か2戦を欠場しただけでレースに復帰。マクラーレンジェームス・ハントとタイトルを争った。


 この年の最終戦は日本の富士スピードウェイで初開催された”F1イン・ジャパン”。しかし大雨に見舞われたため、ラウダはわずか2周で”自主”リタイア。ハントにタイトルを奪われることとなった。 ラウダとハントの戦いは、日本でも2014年に公開された映画『ラッシュ/プライドと友情』でも克明に描かれている。
 翌77年にはタイトルを奪還するも、78年からばブラバムに移籍。ブラバムでは2年走ったが、カナダGPのフリー走行中に急遽引退を表明した。その後ラウダは、オーストリアでチャーター航空機の事業立ち上げに従事し、F1の世界からは離れる。


 しかし1982年にマクラーレンからF1復帰。1984年には自身3度目となるチャンピオンに輝いた。1985年限りでF1から2度目の引退。その後は1990年代にフェラーリコンサルティング・マネージャーを務め、その後ジャガーF1チームの代表を2001〜2002年にかけて務めた。2012年からはメルセデスのF1チームのノン・エクゼクティブ・チェアマンを務め、チームに帯同。現在の最強チームを形作る上での、重要人物のひとりだった。
タイトル獲得数:3回(1975、1977、1984
優勝:25回
ポールポジション:24回
ファステストラップ:24回
F1デビュー:1971年オーストリアGP
F1初勝利:1974年スペインGP

 

映画『ラッシュ/プライドと友情』は自分も見ました。かなり良い映画でしたね。だっ

て実話ですよ、実話。F1ドライバーがなんたるものかもこれで知らされたように思いま

す。ドイツグランプリで大火傷で瀕死の状態、そしてその42日後にレースに復帰。信じ

られません。まさに不死鳥とも言えたラウダ。そして遂に70歳で亡くなる。1世代前の

F1ドライバーですが自分にも感動と勇気を与えてくれました。合掌。

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